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人見知りの鬱

by Kazuma Sekiguchi

これは「MD Advent Calendar 2016」の11日目の記事として公開するものです。

・・・、1度書いて公開したのに消えたぜぃ・・・。書き直すぜぃ・・・。ツラいぜぃ。

何かの解説記事を書こうと思ったのだけど、そういうのは調べてくれ。ダメなら直接来てくれ

人が嫌いである。毎年300名くらい新しい学生さんに対して教えている講師業を生業としている奴の言うことではないが、人見知りがいつまで経っても治らない。こういう生活をしているためか、あまり指摘されることも少ないが、人見知りの素質がある人には見抜かれたりするので、そういうものなんだろう。

多分に人見知りはこれまで育ってきた環境だったり、生まれながらの素因だったり、人に裏切られたトラウマなどのことから生じたり、人嫌いになっていくのだろうと思うのだが、一度自分は人見知りである、という風に自分で感じてしまうと、余計に人を意識するため、克服は不可能になる。

デザインとかクリエーター業界は、比較的感情意識で生きている人が多いため、人見知りの人が多いかと思っていたのだが、どうもそうでもない。表立って出てくる人がそうではないだけなのかも知れないが、表立って活動されている人と少し掠っている自分は、意識の違いや接し方の違い、距離感などに戸惑ったり、羨ましいと感じたり、疎外感みたいなものを常に感じていたりする。何となく次元が違うような落ち着かないような。違和感を感じているなら、そこから離れれば良いのだろうけど、そこから得られる体験、経験、知識は重要である。恐らく、そこから追い出されるまでしがみついているのだろうと思っている。

社会に出ると、余計人との繋がりは薄っぺらく表面的になるが、そういう関係では、人の奥底まで知った上で付き合いや折衝をすることは無くなる。そのため、一事が万事、他者を意識しながら接する必要が出てきてしまう。薄っぺらだから、奥底まで理解して貰えない。意識するという考えが出てくる辺りで無理があるわけだが、意識しないで行動できないのだから仕方ない。人にどう思われるか、雰囲気を壊していないか、きちんと応対できているか、などを常に気配りして行動する。疲れないわけが無い。余計に人を遮る方が楽となる

人見知りも不思議なことに同調、波長が合うといえば良いか、平気な人というのは存在して、これはまず、大体人見知りという共通素因基盤を保持していることが多い。お互いに何となく人見知りということを分かった上で接するため、比較的問題が少ない。
仕事柄学生さんと接する機会が多いが、クリエーター系の学生さんはこの傾向が強く、人間関係で悩んでいる、人に言えないから自分の中でどうにかしようと藻掻いている人が多いように感じる。これが高じると、自分の心身に支障を来し、心療内科的な範疇に陥ってしまっている人も多いのでは、と思っている。

学生さんなどは何故か親しくしてくれる人が多く、個人的にも接するのが楽なので、嬉しいのだが、それは立場の違いというもあるのだろう。彼らは僕を立ててくれる関係だし、年齢差もあるため、恐らくプライベートで接する機会や、社会的に損失を被るような関係にはなり得ない。学生の間はそれが許されるし、学生間でも本当はそれが許されるはず。もっとも、雰囲気を読む、仲間意識を異常に重視する環境においては、全く遮断して個として、生活ができる忍耐と精神力が無いとキツい。人見知りとか人が嫌いだから避ける以上に大変な労力となる。

人見知りの人や人が嫌いな人はそんな自分を許せなかったり、接した後で反省をしたりするので、どうしても疲れる。疲れるから自分が嫌いになる。そんなことの繰り返し。それを断ち切れるようになれれば良いのだろうけど、妙薬は無い。いっそ全ての人間関係を全て絶ってしまえば楽なんだろうけど、それはそれで茨であり、ほんと生きづらい。

人見知りの人は自分を責めることを辞めることから始める。それは性質であり、別に誰に被害を及ぼしているわけでは無い。合う合わないは誰にでもあるし、声高に人が嫌いである、と言っても叩かれることはまず無い。それで寄ってきてくれる人もいるだろうし、離れていく人もいるだろうけど、それで良いのでは。その人間関係さえ大事にすればそれで良いのです。
心身がマズいな、と思ったら自分を解放してみる。信用できる人に言ってみる。Twitterで叫んでみる。
もっと、自分に自由で良いんだろうと思う。


Kazuma Sekiguchi
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